日本人はなぜこんなにマンガが好きなのか?歴史から考える(中)

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日本人はなぜこんなにマンガが好きなのか?歴史から考える(中)

日本人はなぜ、ここまでマンガが好きなのでしょうか。歴史から紐解いてみるといろいろなことが分かってきます。

前回のコラムでは、

・日本人とマンガがあっていたため、既に平安時代~鎌倉時代に絵巻物として高度なマンガ的表現があった

・それにはPR要素がかなりあった

ことを書いています。

今回は、更にマンガが発展した室町時代~江戸時代についてお話しようと思います。

江戸時代、浮世絵・落語・マンガが同時発生的に大流行していた!

室町時代は相変わらず絵巻物や屏風絵が盛んでしたが、これらは前回のコラムでも書いたように制作費に1億円ほどの費用がかかり、庶民には縁遠いものでした。

庶民はせいぜい、お寺で御開帳のときに絵巻物を見るぐらいだったのです。

これは室町時代が平和な期間が短く、戦乱が多かったこともあったと思われます。

戦乱が終わった江戸時代になると、庶民にまで絵が行き渡るようになっていきます。

この中で特に重要なのは、江戸初期の浮世絵師・岩佐又兵衛(浮世又平)です。

岩佐又兵衛は前回取り上げた『蒙古襲来絵詞』を描いた土佐長隆と同じ土佐派の絵師ですが、本人は戦国武将・荒木村重の息子でした。

父が織田信長に滅ぼされ、落城のときに父と幼い又兵衛は逃げ延びることができましたが、捉えられた母や親類は信長に処刑されてしまいました。

このことから又兵衛は武士を捨て、絵師になったと言われています。

彼の代表作は『山中常盤物語絵巻』という絵巻物ですが、これは源氏物語風の姫君が盗賊に殺されてしまい、息子が仇討ちをするというこれまでの源氏物語絵巻と合戦絵巻をくっつけたような構成になっています。

盗賊が姫を攻撃するシーンが劇画調だと言われています。

この岩佐又兵衛という人物は最近、絵画の歴史の中で大変注目されている人物ですが、まだまだ研究がし尽くされておらず、よくわからないことが多いのです。

伝説では、彼は徳川幕府や徳川親藩からの依頼で絵巻物や屏風絵を描いた他、浮世絵や大津絵など、庶民向けの絵も制作したとされています。

大津絵は、東海道大津宿(現在の滋賀県大津市)で土産物として売り出された絵で、庶民が買って楽しめる日本で初めての絵でした。

鬼のキャラクターが大いに庶民にウケ、キャラ立ちしたマンガの元祖とも言われています。

鬼は最近の大ヒット作『鬼滅の刃』でも取り上げられていましたが、マンガにはよくあったキャラクターなのでしょう。

大津絵「鬼の太鼓釣り」

(大津絵「鬼の太鼓釣り」:雷を落とす鬼「雷神」が雷に必要な太鼓を落としてしまい、拾おうとしている絵。ユーモラスな鬼の表情が楽しい。)

大津絵はいつしか岩佐又兵衛が元祖だと考えられるようになり、歌舞伎にも取り上げられ、松尾芭蕉が俳句を広めたときに「大津絵の 筆のはじめは 何仏」(大津絵の絵師は、正月の書き初めに何の仏画を描くのだろう、の意味)という句を読むなど、江戸時代に発祥したメディアに次々に取り上げられました。

このように、マンガは他のメディアと関係しながら、徐々に地歩を固めていきます。

浮世絵の発展と、他のサブカルチャーとの同時成長、そしてマンガの誕生

浮世絵は元々美人画・風俗画のみを描いていましたが、他のメディアと関係するにつれて題材が豊富になり、遂にこれまでの日本画・中国画をすべてマスターした大天才・葛飾北斎を生み出すに至ります。

北斎は奇行の多い人で、彼を取り巻く江戸の人々もしばしばあきれていましたが、上は徳川将軍から下は市井の庶民まで、江戸中が北斎のファンだったことも事実です。

伝説では、十一代将軍・徳川家斉が鷹狩りの途中で北斎に絵を頼み、北斎ははじめは真面目に風景画を書いていましたが、そこは奇人・北斎、いたずらをしたくなりました。

最後は鶏の爪に紅を塗って紙の上を歩かせ「紅葉でございます」と言ったというのです。

将軍は北斎ファンだったせいか、特段のとがめはなかったそうです。(この事自体が、マンガ家の杉浦日向子氏のマンガ作品『百日紅』(さるすべり)になっています)

その北斎が描いたのが『北斎漫画』です。遂にマンガ(漫画)という題名の本が出るに至ったのです。

ただ、現代の漫画のようなつもりで『北斎漫画』を読もうとすると結構困惑すると思います。

下の絵のように、ストーリーやセリフがなく、なにやら面白そうな絵が大量に書いてあるだけだからです。

北斎漫画

『北斎漫画』のすごいところは、これまで美人画は美人画、風景画は風景画、武者絵は武者絵…というようにジャンルが分かれていたのを一切とんちゃくせず、ありとあらゆるものを絵にしてしまったことです。

このことでマンガは大きく広がりましたし、また「色々なことを描けるちょっと面白い絵」というマンガジャンルの独立にもつながっていきます。

江戸は新興都市だったので、能・狂言・大和絵・謡曲のような京都中心のハイカルチャーより、浮世絵・落語・マンガ・小唄のようなサブカルチャーが町人に喜ばれました。

サブカルチャー全てを飲み込んだのは歌舞伎ですが、戯作者が文章を書き、浮世絵師が挿絵を書いた読本(よみほん)もまたサブカルチャーの融合と言えるでしょう。

北斎や、弟子の渓斎英泉(けいさい・えいせん)は読本の挿絵も手掛けています。

この頃の読本の挿絵は本の中に少し入っている程度のものではなく、見開き2ページが全て挿絵で全ての章に入っているものでした。

今のライトノベルよりも絵の比重が大きいのです。ストーリーを読み解くためには絵も重要なものとされています。

北斎が挿絵を描いたのは中国の水滸伝を翻訳した『水滸画伝』、渓斎英泉が手掛けたのは曲亭(滝沢)馬琴の『南総里見八犬伝』でした。

いずれも現代のマンガやアニメに大きな影響を与えています。

水滸伝は横山光輝、さいとうたかを、正子公也、天野洋一などがマンガ化しており、八犬伝は碧也ぴんく、篠原烏童、岡村賢二、江川達也などが現代のマンガ化を行っています。

葛飾北斎の『北斎漫画』や、『水滸画伝』は明治になっても読者を失うどころか益々増える一方で、ヨーロッパの画家にも影響を与えたり、『水滸画伝』が中国に逆輸入されるなど、世界史的な影響をもたらしています。

現代のマンガに与えた葛飾北斎の影響はかなり大きいのです。

そして、浮世絵には販売促進のノベルティグッズとしての用途も存在していました。

江戸時代から盛んになった富山の薬売りは、顧客に景品として浮世絵を渡していたのです。

これを「売薬絵」とか「富山絵」というのですが、これらの景品で喜ばれたのは北斎のライバルだった歌川(安藤)広重の『東海道五十三次』で、娯楽が少ない当時の人々の間では無料で配られる浮世絵は大きな楽しみになっていたのです。

今でも食品の景品に類似のものが使われています。

結び…マンガはサブカルチャーと融合し、更に発展した!

これまで述べてきたことをまとめますと、マンガは江戸時代に他のサブカルチャーと結びついて発展したこと、特に葛飾北斎の『北斎漫画』などの作品が現代マンガと結び付きが強いことがわかりますね。

次回は、いよいよ現代マンガの発展とPRマンガの関係についてお話したいと思います。