日本人はなぜこんなにマンガが好きなのか?歴史から考える(下)
昭和のマンガは、映画から発達した!
明治大正昭和戦前にもマンガはありましたが、『サザエさん』のような4コマくらいで、本格的なストーリーマンガは戦後に流行したものです。
特に、戦争に負けた後、アメリカの占領を受けた時期にディズニー映画に感激したクリエイターたちがマンガを描くようになります。評論家の関川夏央氏はこのことを次のように述べています。
『物語マンガもまた戦後生まれで、その父は手塚治虫である。その母は、手塚が愛した映画、なかんずくアメリカ映画である。手塚は、映画のモンタージュとリアリズムとユーモアを、「ひとりでつくれる映画」すなわち物語マンガに導入し、(中略)やがて世界でも類のない躍動的なジャンルに育て上げた。』(『知識的大衆諸君、これもマンガだ』文藝春秋刊)
戦後のマンガは欧米の映画表現を大きく取り入れ、飛躍的に表現力を増していきます。
手塚治虫を筆頭とする「トキワ荘グループ」では、先輩が後輩に積極的に映画を見るようにすすめ、映画の代金まで渡すということがよく行われていたのです。
このグループは全国のマンガ好きの少年たちを引きつけ、北は東北から石ノ森章太郎、北陸から藤子不二雄A・F、南は九州から松本零士と優秀な人材が手塚を慕って集まってきます。
それとは別に武者絵の伝統を引くさいとう・たかを・小池一夫らのグループが大阪で「劇画工房」を結成し、よりリアルな表現を目指しました。
「劇画工房グループ」は伝統的、東洋的な表現に加え、アメリカのアニメより、アメリカの実写映画、特にアクションものの影響を色濃く受けています。
貸本屋・マンガ雑誌…マンガは媒体を次々に変化させて生き残った
戦後、マンガを発表する場所としては、一番はじめにあったのは「貸本屋」という商売です。
「貸本屋」は読んで字のごとく、本を貸す業者です。江戸時代からあった業態で、昔は本が高かったために本を借りて読む人が多かったのです。
新興のマンガ家たちは「貸本マンガ」業者の依頼でマンガを描いていました。
手塚治虫が師の酒井七馬と描いた、映画的表現をマンガに持ち込んだ傑作『新宝島』も貸本マンガです。
この作品は当時としては斬新な表現で、ふるさとの富山で働いていた藤子不二雄A・Fを驚倒させ、マンガ家への道を歩ませるに至ります。
貸本マンガは昭和30年代にテレビが普及すると廃れ、マンガ家たちは当時相次いで発刊された週刊マンガ雑誌に発表の場を移します。
例えば、1964年(昭和39年)3月に連載開始された藤子不二雄の『オバケのQ太郎』は、小学館の『少年サンデー』に連載されました。
翌年の1965年(昭和40年)8月には、テレビ初のギャグアニメとして『オバケのQ太郎』が放映され、大ブームになっています。
掲載誌も1966年に100万部を突破しました。
しかし、まだマンガは子供のものだと思われており、おとなが読めるマンガは旧来型の風刺マンガ以外は、表現を模索している状態でした。
そんな中、モンキー・パンチ、さいとうたかをといった貸本出身のマンガ家が更に新しい表現を切り開いてゆくのです。
漫画雑誌を創刊した当時の出版社では、元々はニュースの雑誌や文芸雑誌などの編集者がマンガを担当しており、その人々はマンガにも高度な物語性を求めていきます。
題材も大人向けのものとなり、1968年(昭和43年)に創刊された『ビックコミック』から連載が始まった『ゴルゴ13』は国際情勢や時事問題を背景にした硬派なストーリーで人気を博すようになります。
この作品はしばしば広告マンガにも使われており、1988年に創刊した週刊誌『AERA』にも「スーパー特派員・亜江良十三(あえら・じゅうぞう)」という宣伝マンガ(ゴルゴ13の弟が主人公)が出ていたほか、野村證券でも「亜佐日十三の個人型年金リポート」(http://ad-manga.work/list/anime/anime_product/asahi13/index.html)という個人型年金のPRコミックが存在しています。
その後、貸本屋から漫画喫茶、紙から電子書籍、SNSでの連載など、マンガは次々に発表媒体を変えながら進化していくのです。
石ノ森章太郎の「萬画宣言」…マンガは全てのものが描けるという宣言
1970年代から80年代にかけてマンガは更に進化し、少女マンガと少年マンガを融合させた「萌え系」の表現の出現や、マンガ家がアニメやゲームなど新しい媒体に取り組むなどの動きが見られました。
1984年(昭和59年)12月には、『週刊少年ジャンプ』の発行部数が400万部を突破し、誰もがマンガを読む時代に突入したのです。
そんななか、マンガ家として大活躍した石ノ森章太郎は「マンガとは萬(万の旧字)=よろずのことを描けるものだ」と主張し、1989年(昭和64・平成元年)「萬画宣言」を唱えます。
かつてのマンガは「漫画」の字を当て、「いたずらがき」のような意味を持っていたのですが、もはや堂々たる文化に成長したと石ノ森は述べたのです。
石ノ森は『マンガ日本経済入門』・『マンガ日本の歴史』など、これまでのマンガの枠を大きく広げました。
マンガは、情報伝達ツールとして飛躍的に進化した!
平成時代に入ると、マンガは一層読まれるようになり、誰もがマンガを読み、またSNSで自作マンガをアップするという行為ができるようになりました。
もはや誰もが使える情報伝達ツールにまで成長したのです。
平成時代には、「エッセイマンガ」が大流行しました。
育児をするママの日常を描いて大ヒットした青沼貴子『ママはぽよぽよザウルスがお好き(ママぽよ)』(1993年[平成5年])が育児雑誌の連載からブレイクするなどもはやマンガは特別なものではなく、日常のどこにでもあるものになったのです。
『ママぽよ』も郵便局のCMキャラクターになっています。
結びに
以上、駆け足でしたが、昭和・平成のマンガの歴史をたどってみました。
これまで述べてきたことをまとめますと、マンガは常にPRや広告宣伝と一体となって成長してきたことが分かっていただけたかと思います。
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