日本人はなぜこんなにマンガが好きなのか?歴史から考える(上)…古代~中世のマンガ
日本人はなぜ、ここまでマンガが好きなのでしょうか。歴史から紐解いてみるといろいろなことが分かってきます。
古代、世界の四大文明にもマンガがあった?マンガは古代では世界各地にあったといわれています。
「世界大百科事典」には、
「漫画は絵と笑いの結びつきとともに古い。エジプトの記念碑の一つに,貴婦人が酒宴の後で吐いているのを侍女が介抱する図柄が彫り込まれており,漫画がすでに古代エジプトにあったことがわかる。パピルスにも鳥や獣のこっけいな絵が描かれている。ギリシア時代にはこっけいな似顔絵で知られたパウソンという漫画家がいたという。」
と書かれているとおりです。
古代文明のマンガと現代のマンガとの違いは、ストーリーの有無です。
前に述べたような「こっけいな絵」にはストーリーが存在していません。これをマンガの前段階として、「戯画」(ぎが)ともいっています。
中国でも古くからマンガ調(戯画)の人物像が発達していました。
下記のツイッター投稿で触れられている像は、中国のマンガの起源の一つとされています。
四川省博物館にあった説唱俑(せっしょうよう)😃
— 中國紀行CKRM (@CKRM_Official) December 23, 2019
説唱とは、故事や物語を面白おかしく語り聞かせる芸人のことです。いい笑顔といい感じの下っ腹😸
俑から当時の人びとの営みが垣間見れるのは楽しいですね#中國紀行CKRM pic.twitter.com/Sd9CuBS2zK
しかし、日本とヨーロッパ、アメリカ以外の四大文明の後継の各地域では、こういう戯画がストーリーマンガや四コママンガに発展しなかったのです。
なぜでしょうか?
次に、日本でマンガが発達した理由を述べてみたいと思います。
世界のマンガの歴史から分かる、日本でだけマンガが流行った理由
日本でマンガが発達した理由を有識者の人々が色々論じていますが、それらを総合すると下記のようになるようです。
◎日本語表記、漢字仮名交じり文のマンガとの相性の良さ
ジブリアニメの監督だった高畑勲氏の考察を要約すると以下のようになります。
・脳科学の研究でわかったことですが、日本人は日本語を「漢字仮名交じり文」で表記しますが、漢字とひらがな・カタカナを脳の別々のところで認識しているそうです。
漢字そのものがそもそも絵から発達した象形文字ということもあり、マンガ的な面があります。
漢字を絵、読みをセリフに置き換えれば漢字仮名交じり文はマンガになってしまうわけです。
(以上、高畑勲氏『日本伝統文化に見るマンガ・アニメ的なるもの-その独自の発達と日本語-』より)◎文化の断絶があまりなかった
例えば中国の場合、王朝が代わる度に文化が激変し、激しい戦乱などで文化財が破壊されることも多かったため、日本より文化が伝承されにくいのです。
といったことが、日本でマンガが発達した理由のようです。
超簡略・日本のマンガの歴史(古代)
最も古いマンガは諸説ありますが、奈良時代~鎌倉時代の絵巻物がマンガの元祖だという説が有力なようです。
現存最古の絵巻物は『過去現在因果経絵巻』(かこ・げんざい・いんがきょう・えまき)という奈良時代天平年間(西暦729年~749年)の絵巻物で、お釈迦様の人生物語「因果経」を絵解きした絵巻でした。
絵を見るとわかりますが、お経の上部にストーリーが絵で描かれていますね。絵は素朴ですが、山の表現などはリアルです。
絵巻物ははじめは貴族が楽しむものだったので、題材も『源氏物語絵巻』など貴族の生活だったが、徐々に武士が読者になっていきます。
絵巻物発展と同じ時期に、日本初の広告も出現しています。そして、それはひょっとしたらイラスト広告だったのかもしれません。
平安時代の承平5年(935)2月、土佐(高知県)から京都へ帰ってきた紀貫之は「京都の山崎の揚げ菓子の看板は昔と変わっていない」と『土佐日記』に書き残しています。
これが日本の広告の初出という説があるのです。
この看板の画像は伝わっていませんが、当時はまだ字が読めない人が多かったので、絵か、模型のようなものだったのかもしれません。
だとすれば、これも一種のマンガ広告だった可能性もあります。
武士の起こりと共に、マンガの原型・絵巻が発展し始める!
最古の広告が記録された4年後の西暦939年、関東地方で武士が挙兵します。世に言う「平将門の乱」です。
この頃から四大絵巻といわれる絵巻が発達していきます。四大絵巻とは『源氏物語絵巻』・『伴大納言絵詞』・『信貴山縁起』・『鳥獣人物戯画』を指しています。
漫画の歴史で重要なのは、コマ割り漫画に近い描き方が見られる『伴大納言絵詞』と、動物キャラクターが楽しげに動き回る『鳥獣人物戯画』でしょうか。
「鳥獣人物戯画」は既にこのサイトで取り上げているので(『マンガの歴史②平安時代編』https://manga-factory.net/column/1013)、今回は別の絵巻を取り上げたいと思います。
武士の起こりは諸説ありますが、この頃世は乱れており盗賊が多かったので、地方の有力な農民が自衛のために武芸を習ったことと、
京都から地方に赴任した下級の公家(武官)が農民たちのリーダーになり、武士団を形成したのが始まりだとされています。
平将門の乱も朝廷が送った討伐部隊はあっけなく負けてしまい、地方の武士団に依頼してようやく反乱を鎮圧するに至っています。
平将門を討ち取ったのが絵巻の主人公にもなった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)でした。
この武士団は元々民衆もしくは下級の公家だったため、彼ら彼女らは、朝廷や出先の国司に自分たちが武士だと認めてもらえないと、単なる農民か食い詰めた公家になってしまうので、宣伝が必要になりました。
PRマンガの元祖?戦記絵巻
かくして戦乱の世は戦記絵巻(武者絵)が流行することになるのです。
それは自分たちが強く、立派な武士であることを証明するため、もしくは、先祖が強かったことを証明するために描かれました。
いわばPRマンガの元祖です。
藤原秀郷の絵巻は『俵藤太物語』(たわらのとうたものがたり)といい、俵藤太は秀郷のアダ名です。
(妖怪ムカデと戦う藤原秀郷。江戸時代の浮世絵師・勝川春亭が絵巻にならって描いた。)
絵巻では将門だけではなく、彼は妖怪ムカデを退治したことにもなっています。
この武士団は宣伝が上手だったためか、あちこちの地方の武士が「私も実は、ムカデ退治の英雄・俵藤太の子孫だ」と名乗り始め、日本全国の武士が俵藤太の子孫を主張するに至ります。
北は東北から南は九州まで子孫が分布しています。
藤原氏だけではなく、源氏や平家もこのころ色々宣伝したおかげで全国の武士は源平藤橘の4氏のいずれかになっています。
源氏は源氏物語絵巻、平家は平家物語絵巻、藤原氏は先に述べた『俵藤太物語』、橘氏は一族の楠木正成が活躍する『太平記絵巻』と、それぞれPRの絵巻物を持っていました。
1億円かけて絵巻でPR?!竹崎季長と蒙古襲来絵詞」
戦記絵巻(武者絵)でもっとも有名で、かつ作品の出来が優れているは『蒙古襲来絵詞』(もうこしゅうらいえことば)です。
歴史教科書で見たという方も多いのではないでしょうか?
これはモンゴル軍と主人公の竹崎季長(たけざきすえなが)が戦ったことだけを描いているのではなく、実はPR目的の絵巻物だというのをご存知でしょうか?
「自分は戦いで手柄を立てたが、恩賞が出ないので九州から鎌倉幕府までわざわざ行き、幕府の奉行と面談して功績を認めてもらい、
120人中でトップの成績を認められて領地だけではなく馬までもらった」と自分があくまでも功績があったことをPRしているのです!
この絵巻を見るとわかりますが、既にコマ割りのストーリーマンガ並みに話が展開しており、戦いのシーンと成績を認められるシーンも細かく書き分けられています。
蒙古襲来絵詞。竹崎季長(右端の武将)がモンゴル軍(左側の兵士たち)に斬り込んだ所。
竹崎に奇襲されて驚いて逃げ出す兵士と、踏みとどまって戦う兵士、爆発する大砲の弾などリアルな表現が特徴。
踏みとどまる兵士の絵の線が逃げる兵士と違うが、竹崎季長が絵師に後から書き足しを指示したためらしい。
蒙古襲来絵詞の続き。合戦が終わり、九州から鎌倉の幕府に赴いて戦功を報告するシーン。
左端に幕府の恩賞奉行・安達泰盛、その隣の緑色の服の人物が竹崎季長で、お奉行からちゃんと領地をもらったことをアピールしている。
奉行所の人々の表情も細かく描かれており、居眠りしている人もいる。
蒙古襲来絵詞の更に続き。領地をもらうシーンの後で、竹崎季長の功績に感激したお奉行がボーナスに馬までくれている所。馬の隣りにいる人物が竹崎季長。
彼は都の絵師・土佐長隆(とさながたか)に依頼するに当たり、現代の貨幣価値で換算すると1億円ほどの費用をかけたと言われています。
竹崎季長は恩賞で領地をもらい領国経営をしたり、海外貿易をしたりして費用を捻出したようです。
(参考:熊本県公式観光サイト・萩坂道秋氏「竹崎季長と海東郷」 https://kumamoto.guide/look/terakoya/097.html )
それほどの高額な宣伝費を掛けてでも、絵巻を作る価値があったのです。
当時よくあった土地所有権をめぐる裁判沙汰が発生した時の証拠書類の面もあり、PRマンガとしてはかなりよくできた構成になっています。
武士は「一所懸命」をスローガンとしており、自分たちの土地を獲得することに執念を燃やしたため、合戦の手柄を絵にして残すことは重要でした。
このあたり、現代のPRマンガとも共通しています。
これ以外の合戦図屏風なども同工異曲で、自分が敵の大将を討ち取ったところをフォーカスして絵師に描かせたり、依頼主だけヨロイ・カブトがしっかり描かれていたり、
自分の夫が合戦で一番活躍したことをアピールするために、ある姫が夫の姿をど真ん中に描かせたものさえ存在しています。
結び…日本人のマンガ好きは古代までさかのぼる!
これまで述べてきたことをまとめますと、マンガの源流は絵巻物であること、絵巻物が発展していく過程で広告も発展していき、
特に武士を題材にした絵巻物は現代のPRマンガに近いものであること、などということになっています。
武士のPRに掛ける心情や、PRの絵巻物に掛けた費用など、現代の企業と変わらないことに驚かれたかもしれません。
現代のマンガPRの費用と比較しても面白いかもしれません。竹崎季長が1億円掛けたのに比べれば、ずいぶん安くなっています。
詳しくは下記のページを御覧ください。
「【まとめ】ビジネスマンガ制作の相場・費用感はどのくらい??」
https://manga-factory.net/column/2011
次回も、歴史上のマンガの発展とPRマンガの関係についてお話したいと思います。